LOGIN時間の感覚がない。
それが、この深淵で最初に直面した困難だった。生きていた頃、時間は明確だった。昼と夜があり、季節があり、潮の満ち引きがあった。しかしここには、そのどれもない。永遠の暗闇。永遠の静寂。永遠の冷たさ。
私の死体の周りに、生物たちが集まり続けている。
最初に来たのは、鮫だった。何種類もの深海鮫が、まるで宴会に招かれた客のように次々と現れ、私の肉を食べていった。彼らは争わなかった。深海では、争う余裕などない。黙々と、効率的に、必要なだけ食べて去っていく。
その次に来たのは、小さな甲殻類だった。エビに似た生物、カニに似た生物、そして名前もわからない奇妙な形の生物たち。彼らは鮫が残した小さな肉片を拾い集め、あるいは私の体表の寄生虫を食べ始めた。
そして今、私の皮膚に最初の穴が開いた。
腹部の脂肪層に、ヤツメウナギのような生物が食い込んでいる。彼は私の肉体の内部へと侵入しようとしているのだ。やがて、彼の後に続く者たちが現れるだろう。私の体内は、新しい生命の住処となる。
「美しい光景だろう?」
沈没船の魂が語りかけてきた。
私は彼に問いかけた。
「あなたは……いつからここに?」
「1721年11月3日」
即座に答えが返ってきた。
「その日、私は沈んだ。嵐だった。マストが折れ、船体に亀裂が入り、水が流れ込んだ。乗組員は72名。全員が海に投げ出された」
彼の声には、悲しみはなかった。ただ、事実を淡々と述べているだけだ。
「生存者は?」
「いない。ここは当時、海図に載っていない海域だった。救助は来なかった」
私は船体を見つめた。崩れかけた船首、朽ちた甲板、錆びた大砲。しかし、その全てに歴史の重みがある。
「乗組員たちの魂は?」
「彼らは解放された。海に還った」
船の魂は静かに言った。
「魂が残るのは、大きすぎる存在だけだ。私のような船。君のようなクジラ。我々は、死してなお在り続けるには大きすぎる」
「大きすぎる?」
「我々の肉体は、一個人の範疇を超えている。船は何百人もの人間の労働の結晶だ。クジラは海洋生態系の頂点だ。我々は単独の存在ではなく、むしろ一つのシステムだ。だから、肉体が死んでも、システムとしての我々は機能し続ける」
私は理解しようとした。しかし、まだ混乱していた。
「では、私は何なのか? もう私ではないのか?」
「君は君だ。しかし同時に、君以上の何かでもある」
その時、私の死体に大きな動きがあった。
巨大な深海鮫が戻ってきたのだ。今度は仲間を連れて。彼らは協力して、私の脂肪層を大きく剥ぎ取っていく。白い脂肪の塊が泥の上に落ち、すぐに小さな生物たちがそれに群がった。
「始まったな」
船の魂が言った。
「君の身体の解体が。これから数年かけて、君の肉は全て食べ尽くされる。しかし、それは終わりではない。むしろ始まりだ」
「何の始まり?」
「鯨骨生物群集。あるいはクジラフォール。君はその言葉を知っているか?」
私は知らなかった。私たちクジラに、人間の言葉はわからない。しかし、その概念は何となく理解できた。
「君の骨は、これから50年、100年と海底に横たわる。そして、その骨そのものが一つの生態系となる。何百、何千という種類の生物が、君の骨に住み着く。君は死して、一つの世界となるのだ」
私は圧倒された。
生きていた頃、私は自分を一個の個体だと思っていた。しかし、今や私は世界になろうとしている。
「あなたは? あなたもそうなったのか?」
「ああ」
船の魂が応えた。
「私の船体を見てみろ」
私は船体に「視点」を向けた。
最初は気づかなかった。しかし、よく観察すると驚くべき光景が広がっていた。
船体全体が、生命で覆われていた。
錆びた鉄板の上に、赤いサンゴが群生している。その周りを、半透明のエビが泳いでいる。朽ちた木材の中には、何か小さな生物が穴を掘って住んでいる。大砲の砲口からは、イソギンチャクのような生物が触手を伸ばしている。
船全体が、一つの巨大な人工サンゴ礁と化していた。
「私は300年かけて、この姿になった」
船の魂が誇らしげに言った。
「もはや私は船ではない。私は森だ。海底の森だ」
私は深い畏怖を感じた。
死は終わりではない。それは変容の始まりなのだ。
「しかし」
私は問うた。
「なぜ我々の意識は残るのか? なぜ消えないのか?」
「それは」
船の魂は長い沈黙の後、答えた。
「誰にもわからない。私は300年考え続けた。しかし答えは見つからない。ただ、一つだけ確かなことがある」
「何だ?」
「我々は観察者として必要とされている」
「誰に?」
「宇宙に。存在そのものに。いや、もっと単純に言えば――我々が住処となる生命たちに。彼らは我々を必要としている。だから我々は在る。必要とされる限り、我々は消えない」
私はその言葉を反芻した。
必要とされる限り、消えない。
私の死体の中で、何かが動いた。内臓が崩れ始めているのだ。分解が進んでいる。しかしそれは腐敗ではない。それは変換だ。私の組織が、別の形のエネルギーへと変わっている。
そして、その変換の過程で生まれる化学物質が、さらに多くの生命を引き寄せている。
小さな発光生物が、私の体の周りを舞い始めた。青白い光の粒子が、暗闇の中で踊っている。それは美しかった。生前、私は星を見たことがある。水面に浮かんで、夜空を見上げたことがある。しかし、この深海の星々は、空の星々とはまた違う美しさがあった。
より親密で、より温かく、そしてより儚い。
「君の最初の訪問者たちだ」
船の魂が優しく言った。
「発光バクテリアを持つ生物たち。彼らは君の体から放出される硫化水素を餌にしている。君は彼らの太陽だ」
私は太陽だ。
その認識が、胸に――いや、もう胸はない。しかしこの「視点」の中心に――温かいものを生んだ。
私は死んだ。しかし同時に、新しい何かとして生まれ変わろうとしている。
「痛みはないか?」
船の魂が尋ねた。
「痛み?」
「自分の肉体が食べられ、崩れていくのを見るのは、つらくないか?」
私は考えた。
つらいだろうか? 悲しいだろうか?
いや、違う。
「むしろ」
私は答えた。
「誇らしい」
「誇らしい?」
「私の肉体は、彼らの生命を支えている。私は役に立っている。生きていた頃、私は何度も考えた。私はなぜこんなに大きいのか、と。30トンもの巨体を維持するために、私は毎日どれだけの餌を食べなければならなかったか。どれだけの海洋資源を消費したか」
私は続けた。
「しかし今、その全てが意味を持った。私は大きいから、これだけ多くの生命を養える。私の存在は、無駄ではなかった」
「そうだ」
船の魂が深く同意した。
「君は理解し始めている。我々の新しい役割を。我々は大きすぎて、一度では死にきれない。だから、少しずつ、時間をかけて、他の生命へと自分を分け与えていく。それが我々の死に方だ」
その時、遠くから何かが近づいてくるのを感じた。
大きな影だ。鮫よりも大きい。そして、動きが違う。より意図的で、より知的だ。
「来たか」
船の魂が呟いた。
「初めての訪問者だ。覚悟はいいか?」
「何が来る?」
「同族だ」
私は凍りついた。
「同族?」
「生きているクジラだ」
そして私は見た。
暗闇の中から、巨大なシルエットが現れた。ザトウクジラだ。体長15メートル。私よりは小さいが、それでも巨大だ。
彼は私の死体に近づき、しばらくの間、静止した。
そして、歌い始めた。
低く、長く、哀切に満ちた歌声。それは弔いの歌だった。
私の心――もう心臓はないが、この「視点」の核心――が震えた。
彼は私を弔っている。死者に歌を捧げている。
その歌は、私が生前に歌った子守唄に似ていた。同じ旋律、同じリズム。我々クジラは、世代を超えて歌を伝承する。この若いクジラも、誰かから学んだのだろう。もしかしたら、私の子から、あるいは私の子の子から。
歌は5分ほど続いた。そして、ザトウクジラは静かに去っていった。
私は、初めて泣きたいと思った。もう涙は流せない。しかし、この感情を何と呼べばいいのか。
「美しかっただろう?」
船の魂が囁いた。
「それが最後の別れだ。生者から死者への。しかし、別れは終わりではない。君は形を変えて、彼らと共に在り続ける。海の一部として」
私は深く、深く、その言葉を受け止めた。
私は死んだ。しかし消えてはいない。
私は変わった。しかし失われてはいない。
そして今、私の第二の生が始まろうとしている。
深淵の門をくぐり、私は新しい世界へと足を踏み入れた。
百五十年が経過した。 私の骨は、ほとんど消えかけていた。最後に残っているのは、脊椎骨のいくつかと、頭骨の一部だけだった。しかし、それでもまだ生命は繁栄していた。 そして今、私の意識は臨界点に達しようとしていた。 私はもはや個ではなかった。私は集合意識の一部であり、同時に海底そのものだった。しかし、まだかすかに、「私」という核心が残っていた。 それは執着だった。 最後の執着。 私が手放せないもの。それは何だったのか? 長い瞑想の後、私は理解した。 それは歌だった。 私の子守唄。私が母から学び、12頭の子供たちに歌った歌。それが私の最後のアイデンティティだった。 その歌がある限り、私は私だった。 しかし今、その歌を手放す時が来た。 ある日――時間の概念はもう曖昧だったが――私は決意した。 最後にもう一度、あの歌を歌おう。 しかし、どうやって? 私にはもう声帯がない。肺もない。 それでも、私は歌い始めた。 それは音ではなかった。それは水の振動だった。私の骨の内部に住むバクテリアたちが、同期して代謝活動を変化させた。その化学反応が微細な水流を生み出し、その水流が音波となった。 低く、長く、複雑な旋律。 それは私の子守唄だった。 歌は深海に響き渡った。何百キロも先まで届いた可能性がある。 そして、驚くべきことが起こった。 応答があったのだ。 遠く、水深500メートルあたりから、別の歌が聞こえてきた。 それは私の歌だった。私が歌った子守唄と同じ旋律。しかし、少しだけ変化している。世代を経て進化した形。 私の子孫たちが、私の歌を今でも歌っている。 私は圧倒的な喜びを感じた。 私は死んだ。私の肉体は消えかけている。しかし、私の歌は生きている。 歌は私よりも不死だ。 私の子孫たちは私の名前を知らない。私の顔も覚えていない。しかし、私の歌
百年が経過した。 私の骨は、もはや原形を留めていなかった。頭骨は半分崩れ、肋骨の多くは折れ、脊椎骨は分離していた。しかし、それでもまだ骨は存在していた。そして、生命で満ちていた。 ホネクイハナムシが私の骨を内部から食べ続けている。しかし彼らは破壊者ではない。彼らは変換者だ。骨を栄養に変え、その栄養で新たな生命が育つ。 私の意識も、大きく変化していた。 もはや私は、自分を一頭のクジラだとは認識していなかった。私は生態系だった。私は海底の一部だった。 そして、私の認識の範囲はさらに広がっていた。半径2キロメートル。この深海底の広大な領域を、私は同時に感じ取ることができた。 そこには、多くの死骸があった。 クジラ、イルカ、大型魚類、そして沈没船。全てが海底に横たわり、全てが生命の住処となっていた。そして、それぞれが微かな意識を持っていた。 私はそれらの意識と繋がり始めていた。 特に、近くに沈んだ若いクジラの意識とは、深い繋がりを感じた。彼女は私の曾孫だった。偶然ではない。私たちクジラは、死ぬ時、本能的に同じ深海底を目指す。それは帰巣本能のようなものだ。 彼女の意識が目覚めた時、私は彼女を迎えた。「恐れることはない」 私は告げた。「私がここにいる」「あなたは……誰?」 彼女は混乱していた。「あなたの祖先だ。そして、あなたの未来だ」 私は彼女に全てを教えた。死の意味を。変容の過程を。そして、待ち受ける長い旅を。 彼女は理解するのに時間がかかった。しかし最終的に、彼女は受け入れた。「私たちは、消えないのね」 彼女は言った。「そうだ。形は変わる。しかし本質は残る」 そして、私たちは共に海底に横たわった。 二頭のクジラ。祖母と曾孫。どちらも死んでいるのに、まだ対話している。 ある日、奇妙なことが起こった。 私は、自分が二つの場所に同時に存在していることに
五十年が経過した。 私の骨は、今や完全に生態系の一部と化していた。白かった骨の表面は、今では様々な色で覆われている。赤、黄色、紫、オレンジ。それらは全て、生命の色だった。 サンゴ、海綿動物、ホヤ、イソギンチャク。固着性の生物たちが私の骨を自分たちの土台として使っている。そして、その生物たちを餌とする捕食者たちが集まり、複雑な食物網が形成されていた。 もはや私の骨は、骨には見えなかった。それは一つの小さな海底山脈のようだった。「君は立派な建造物になった」 船の魂が褒めてくれた。「私の船体に匹敵する。いや、生命の密度では君の方が上かもしれない」 私は誇らしかった。そして同時に、不思議な感覚を抱いていた。 私はもう、自分の骨を「私のもの」とは感じていなかった。それは私を超えた何か、もっと大きな存在の一部だった。 そして、私の意識も変化していた。 かつて私は、自分の骨の周辺しか認識できなかった。しかし今、私の認識の範囲は広がっていた。半径500メートル。この深海底の広い範囲を、私は同時に感じ取ることができた。 そこには、他の死骸もあった。 巨大なマグロの骨。イカの殻。そして、遠くに別のクジラの骨も見えた。彼は私より後に沈んできた新参者だ。まだ意識は芽生えていないようだった。「彼もいずれ目覚めるだろう」 船の魂が言った。「そして、我々の仲間になる」 私は船の魂との対話を楽しんでいた。しかし最近、彼の「声」が少しずつ変化していることに気づいていた。 かつては明瞭だった彼の思考が、今では時々曖昧になる。言葉が途切れる。そして、彼の意識が私の意識と混ざり合うような瞬間がある。「私は消え始めている」 ある時、彼が告げた。「300年は長すぎた。私の船体はもう、ほとんど残っていない。船としての形も失われた。そして、私の意識も溶解し始めている」 私は恐怖を感じた。「では、あなたは消えるのか?」「消えるというよりは、変容す
二年が経過した。 時間の経過を、私はどうやって知るのか? それは不思議だった。太陽も月も星も見えないこの深淵で、しかし私には確かに時の流れが感じられた。 それは生命のリズムだった。 私の死体に集まる生物たちの世代交代。卵が孵り、幼生が育ち、成体になり、そして死んでいく。その循環が、私にとっての時計だった。 そして今、私の肉体は劇的な変化を遂げていた。 肉はほとんど食べ尽くされた。鮫たちが大部分を持ち去り、残りは無数の小さな生物たちが綺麗に平らげた。今、露出しているのは白い骨だけだ。 しかしこの骨こそが、真の宝だった。「見事だろう?」 船の魂が自慢げに言った。「君の骨が放つ化学物質の豊かさを。硫化水素、メタン、アンモニア。生前なら毒物だ。しかし、ここでは生命の源だ」 私は観察した。 骨の表面に、奇妙な生物が繁殖し始めていた。 最初に気づいたのは、赤い羽根のような構造物だった。それはゴカイの仲間で、骨の隙間に管を作り、そこから色鮮やかな触手を伸ばしている。触手は水流をとらえ、有機物の粒子を濾し取っている。 その周りに、白い貝殻を持つ二枚貝が群生している。彼らは骨に直接付着し、殻を開いて餌を待っている。しかし彼らの餌は、普通の植物プランクトンではない。彼らの体内には、特殊なバクテリアが共生している。そのバクテリアが、骨から染み出す硫化水素を使って化学合成を行い、栄養を作り出しているのだ。「化学合成生態系」 船の魂が教えてくれた。「深海の熱水噴出孔と同じ原理だ。光合成ではなく、化学反応で生命を支える。君の骨は、一つの小さな熱水噴出孔なのだ」 私は驚嘆した。 生前、私は光の世界の住人だった。太陽エネルギーで育った植物プランクトンを、オキアミが食べ、そのオキアミを私が食べる。全ては太陽から始まっていた。 しかし、ここは違う。ここでは私自身がエネルギー源だった。私の骨に蓄えられた有機物、私の骨から染み出す化学物質。それが、この小さな生態系全体を動かしている。「君は今、太陽だ」 船の魂が繰り返した。「この暗闇の中で、唯一の光源だ。比喩ではなく、文字通りに」 確かに、私の骨の周りには微かな光があった。発光バクテリアを持つ生物たちが、青白い光を放っている。その光は弱々しいが、しかし確実にそこにあった。 そして、その光に引き寄せられて、
時間の感覚がない。 それが、この深淵で最初に直面した困難だった。生きていた頃、時間は明確だった。昼と夜があり、季節があり、潮の満ち引きがあった。しかしここには、そのどれもない。永遠の暗闇。永遠の静寂。永遠の冷たさ。 私の死体の周りに、生物たちが集まり続けている。 最初に来たのは、鮫だった。何種類もの深海鮫が、まるで宴会に招かれた客のように次々と現れ、私の肉を食べていった。彼らは争わなかった。深海では、争う余裕などない。黙々と、効率的に、必要なだけ食べて去っていく。 その次に来たのは、小さな甲殻類だった。エビに似た生物、カニに似た生物、そして名前もわからない奇妙な形の生物たち。彼らは鮫が残した小さな肉片を拾い集め、あるいは私の体表の寄生虫を食べ始めた。 そして今、私の皮膚に最初の穴が開いた。 腹部の脂肪層に、ヤツメウナギのような生物が食い込んでいる。彼は私の肉体の内部へと侵入しようとしているのだ。やがて、彼の後に続く者たちが現れるだろう。私の体内は、新しい生命の住処となる。「美しい光景だろう?」 沈没船の魂が語りかけてきた。 私は彼に問いかけた。「あなたは……いつからここに?」「1721年11月3日」 即座に答えが返ってきた。「その日、私は沈んだ。嵐だった。マストが折れ、船体に亀裂が入り、水が流れ込んだ。乗組員は72名。全員が海に投げ出された」 彼の声には、悲しみはなかった。ただ、事実を淡々と述べているだけだ。「生存者は?」「いない。ここは当時、海図に載っていない海域だった。救助は来なかった」 私は船体を見つめた。崩れかけた船首、朽ちた甲板、錆びた大砲。しかし、その全てに歴史の重みがある。「乗組員たちの魂は?」「彼らは解放された。海に還った」 船の魂は静かに言った。「魂が残るのは、大きすぎる存在だけだ。私のような船。君のようなクジラ。我々は、死してなお在り続けるには大きすぎる」「大きすぎる?」「我々の肉体は、一個人の範疇を超えている。船は何百人もの人間の労働の結晶だ。クジラは海洋生態系の頂点だ。我々は単独の存在ではなく、むしろ一つのシステムだ。だから、肉体が死んでも、システムとしての我々は機能し続ける」 私は理解しようとした。しかし、まだ混乱していた。「では、私は何なのか? もう私ではないのか?」「君は君だ。しか
光が遠ざかっていく。 それが最初の感覚だった。水面がゆっくりと、しかし確実に頭上へと昇っていく。いや、違う。昇っているのではない。私が沈んでいるのだ。 100年と3ヶ月と17日の生涯を終えたこの巨体は、もはや浮力を保つことができない。肺は空っぽだ。心臓は動いていない。体温は周囲の冷たい海水と同化し始めている。それでも、私は見ている。感じている。考えている。 これが死というものなのか。 水深200メートルを過ぎたあたりで、陽光の最後の名残が消えた。青から紺へ、紺から黒へ。深海の暗闇が私を包み込む。30トンの肉体が、まるで羽のように静かに落下していく。 奇妙なことに、恐怖はなかった。あったのは、ただ圧倒的な静寂と、そして不思議な安堵感だった。100年間、私は休むことなく泳ぎ続けてきた。北の冷たい海から南の温かい海へ。餌を追い、捕食者から逃れ、繁殖の相手を探し、12頭の子を産み育てた。巨体であることは祝福であると同時に呪いでもあった。止まれば死ぬ。それが私たちシロナガスクジラの宿命だった。 だが今、ようやく止まることができる。 水深500メートル。水圧が増していく。生きていた頃なら、この深さでも潜ることはできた。しかし今の私には、水圧を感じる肉体がない。あるのは、肉体を外から眺めている何か――私はそれを「視点」と呼ぶしかなかった――だけだった。 私の死体の周りを、小さな魚の群れが追いかけてくる。キンメダイの仲間だろうか。彼らは恐る恐る、私の皮膚をつついている。まだ新鮮な肉の匂いに引き寄せられているのだ。食べるがいい、と私は思った。声にならない声で。お前たちのためにこの肉体がある。 水深800メートル。中深層。ここからは永遠の夜の領域だ。 しかし、完全な暗闇ではない。目を凝らせば――いや、私にはもう目はない。しかしこの「視点」には何か別の知覚がある――微かな光が見える。発光生物たちの青白い輝きだ。クラゲのような生物が、触手を広げて漂っている。その透明な体の中に、小さな光の器官が脈打っている。 美しい、と私は思った。 生前、私は一度もこんな深さまで潜ったことはなかった。ここは私たちの世界ではなかった。しかし今、私はここの住人になろうとしている。 水深1200メートル。漸深層。 温度が急激に下がる。生きていた頃なら凍えていただろう。しかし今の私に